2009年8月17日月曜日

20090816



■『3時10分、決断のとき』(ジェームズ・マンゴールド、2007)
何をさしおいても見に行かねばなりません。大傑作です。

開巻の静寂からのずり上げての一連のつかみも実に見事で一気に引き込まれましたが、クリスチャン・ベイル演じるダンら護送団がユマ行きの列車が停まるコンテンションの町のホテルに着いたあたりから、
本作はまるで駅のホーム一面を徐々に暗く覆いつくしていった列車のあの巨大な影のように、にわかに化け物じみた傑作の様相を呈してきます。

階上の映画史、などという言葉があるかどうかは分かりませんが、(また今更あらためて指摘するような種類のことでもありませんが、) 映画史において、
階上とは、或いは階上へと歩みを進めることとは、ある不吉で禍々しい、歩みを進めたものを破滅に導くかのような契機の別名として、或いは不穏なるものとの著しい親和性/生成の場として、何度と無く描かれてきたように思います。本作もその類に漏れませんが、何よりも素晴らしいのは、階上のスウィートルームとは名ばかりのありふれた一室が、日照時間にともなう気温の推移を克明に記録しつづけるサーモグラフィのように、一見まったく変わりがないように見えながら、そこを行き来する人物と階下とのわずかなやりとりのうちに、もはや同一の室内とは思えぬまでに陽光きらめく希望から窒息しそうな絶望にまでその印象/表情目まぐるしく豊かに激変/倒立させ、その凍て付いた空気感をありありと活写してみせたことでしょう。ゼロから百へと鋭く反転するこの運動性のうちに、本作は支配されているような気がします。いや、あとで触れるように、この運動性のうちに生きる過酷な個性ベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)に、物語が感応していったと言うべきか。

また劇中でベンが何度か描いてみせる「画」というものが、人がかつてある間そこに留まり、確実
存在したのだ、という痕跡の表象として機能するのだなあと、何だか書くだけでバカみたいですが、妙に得心しました。別に目新しい発明でもなんでもないのですが、ベン・ウェイドは確かに「そこ」に居たのだよな、かつて……、としみじみと思わされたのです。彼は自分を魅了した「相手」を記憶に留めておくようにして画を描き、描き終えるとその場をあとにします。或いはその場を立ち去るために/立ち去ることを知ったとき、彼はその相手への敬意から画を描き始めるのかもしれない。

そして本作の最後の舞台となる駅の佇まいが本当に素晴らしくてうっとりします。出発駅のようでもあり、また終着駅のようでもある…。ホテルからこの駅までの道のりは、単にベン
をユマ行きの列車へ乗せるためだけではなく、同時にダン自身の過去と、それにつづく現在と未来とが辿り直される、非常に濃密な「道」になっています。であればこそ、駅までの途上というダンの人生それ自体に、父親を軽蔑さえしていた息子ウィリアムが加勢してゆく姿は涙なくしては見られない。誇れるものが何もないと言うこの男の命懸けの跳躍が真に素晴らしいのは、たかだか尊敬される父親への昇格などという射程を越えて、悪漢のベンをも巻き込んで、命懸けでこの息子を成長へと導いたからに他なりません。だからラストの展開/ベンの苛烈な運動性の発露は当然と言える。彼の敬愛する母親を罵った人間がどのような末路を辿ったか。彼の敬愛の対象とは無論彼に描かれたものたちのことだ。彼は母親の画をどれだけ描いただろうか。

2009年8月1日土曜日

20090725




■さがしもの
今から1年とちょっと前になりますが、友人の大切な自転車がポレポレ東中野の裏で盗まれてしまいました。写真がその自転車で、ブランドは「カラビンカ」と言います。


フレームの模様の特徴としては全体にラメが入っていて、シルバーで「kalavinka」と書かれてあります。


一番の特徴はピンクのハート模様が幾つか入ってるところです。特注なのでデザインはユニークなものです。盗難車の確保、もしくは犯人確保/逮捕につながる直接的なご協力をいただけた方には謝礼をさせていただきます。みなさんのご協力をなにとぞよろしくお願い致します。vercassive@gmail.com