8年前、僕の脳裏をまず過ぎったのは来たるべき戦争への予感ではなく、NYCに住んでいる友人の安否だった。だがこちらの心配をよそに彼女はルームメイトに起こされて事態を知ったらしく、屋上に上がったら白人がピースして記念写真撮ってた、と寝ぼけた声で暢気に言うのだった。というわけで今回は摩天楼にかけて(ひどい)アラサー落涙必至のアンセムを。とにかく歌詞が素敵過ぎる。「少年色のしっぽ」「 トマトみたいな風」ってなんなのー!心がときめきすぎて泣き出してしまいそう…。プー、覚えてる?
橋本潮 / 少年色のメルヘン
おもいっきり探偵団 覇悪怒組 ED version
『少年色のメルヘン』
(作詞:冬杜花代子/作曲:上田知華/編曲:矢野立美)
気づかないのね おかしなヒト(いやだ いやだ)
少年色のしっぽつけて(わーお わーは)
それでもあなたは
ほんきで大人のつもり
ほとんどメルヘン
みているだけで 胸の中に(ぷーわ ぷーわ)
トマトみたいな 風が吹くの(わーお わーは)
あなたに合わせて
ハミングしてみたくなる
あたしのメルヘン
(ややややーや)
いつまでも そのままでいてくれるかな
(ヤヤヤヤーヤ)
待っててね あたしすぐ追いかけるから
ムリしちゃだめよ 実力なの(いやだ いやだ)
少年色の しっぽつけて(わーお わーは)
かっこをつけても
おへそを泣かせるだけよ
ほとんどメルヘン
(ややややーや)
いつだって そのままのあなたがステキ
(ヤヤヤヤーヤ)
うそじゃない あたしにはいっとうステキ
(ややややーや)
いつまでも そのままでいてくれるかな
(ヤヤヤヤーヤ)
待っててね あたしすぐ追いかけるから
(ややややーや)
いつだって そのままのあなたがステキ
(ヤヤヤヤーヤ)
うそじゃない あたしにはいっとうステキ
ここ2日ほど体調を崩して臥せっていたのだけど、起きたらちょうど「探偵ナイトスクープ」が始まっていたので見始める。古澤さんがいつものまんま映っていた。『シェラデコブレの幽霊』俺も見たい。目が冴えてしまったのでそのままケーブルで『ぬるぬる燗燗』(西山洋一、1996)も鑑賞。ぬる燗最高だ!しみるなー。チャンネルNECOで17日と21日にもやるようなので、ケーブルに入っている人は見た方がいいと思います。しみじみと傑作。
tumblr経由で久しぶりに細川ふみえの『スキスキスー』(1992)を聞く。あれ、こんなにストレートだったかしらん、と思うほど、歌詞・メロともに見事に直球な小西仕事で若干動揺する。10年早かった。しかし巷で言われているように「perfumeの完成形」というよりは、細川によって歌われる小悪魔的な女の子の自我も含め、対比されるのはむしろspanksのそれだろう。というか今聴くとspanksにしか聴こえない。メジャーデビュー前のインタビューで菊地が語っていた「そろそろ音痴が聴きたい」という発言も、案外戦略以上にこの曲(を含めた一連の小西仕事)の焼き直しを愚直に標榜していたのかもしれない、それこそ『physical』みたいに、と勘ぐりたくなるほど。92年は奇しくも第1期spanksデビューの年だ。90年代を強制終了させた確信犯で、それに続くゼロ年代を菊地成孔の時代としたスタジオボイスの見解はたぶん正しい。それにしてもいま菊地成孔を語ることのなんと語りづらいことか。それもそのはず、もうゼロ年代も黄昏だ。あれから10年経ちました。
そんな訳で久々に懐メロでも。同じ92年といえばこれか。
Lil' Louis/Club Lonely
『スキスキスー』はオリジナルではなくてこちらを。何を聴いてもspanksを思い出す。
細川ふみえ/スキスキスー readymade remix
94年のヒット曲。とはいえこれももはや「スパンクハッピーのテーマ」にしか聴こえない。
Saint Etienne/He's On The Phone
おまけ。青梅街道派の傑作PV『SWEETS』冒頭の文字の元ネタはたぶんこのストロボから。
Giorgio Moroder/From Here To Eternity
■『3時10分、決断のとき』(ジェームズ・マンゴールド、2007)
何をさしおいても見に行かねばなりません。大傑作です。
開巻の静寂からのずり上げての一連のつかみも実に見事で一気に引き込まれましたが、クリスチャン・ベイル演じるダンら護送団がユマ行きの列車が停まるコンテンションの町のホテルに着いたあたりから、本作はまるで駅のホーム一面を徐々に暗く覆いつくしていった列車のあの巨大な影のように、にわかに化け物じみた傑作の様相を呈してきます。
階上の映画史、などという言葉があるかどうかは分かりませんが、(また今更あらためて指摘するような種類のことでもありませんが、) 映画史において、階上とは、或いは階上へと歩みを進めることとは、ある不吉で禍々しい、歩みを進めたものを破滅に導くかのような契機の別名として、或いは不穏なるものとの著しい親和性/生成の場として、何度と無く描かれてきたように思います。本作もその類に漏れませんが、何よりも素晴らしいのは、階上のスウィートルームとは名ばかりのありふれた一室が、日照時間にともなう気温の推移を克明に記録しつづけるサーモグラフィのように、一見まったく変わりがないように見えながら、そこを行き来する人物と階下とのわずかなやりとりのうちに、もはや同一の室内とは思えぬまでに陽光きらめく希望から窒息しそうな絶望にまでその印象/表情を目まぐるしく豊かに激変/倒立させ、その凍て付いた空気感をありありと活写してみせたことでしょう。ゼロから百へと鋭く反転するこの運動性のうちに、本作は支配されているような気がします。いや、あとで触れるように、この運動性のうちに生きる過酷な個性ベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)に、物語が感応していったと言うべきか。
また劇中でベンが何度か描いてみせる「画」というものが、人がかつてある間そこに留まり、確実に存在したのだ、という痕跡の表象として機能するのだなあと、何だか書くだけでバカみたいですが、妙に得心しました。別に目新しい発明でもなんでもないのですが、ベン・ウェイドは確かに「そこ」に居たのだよな、かつて……、としみじみと思わされたのです。彼は自分を魅了した「相手」を記憶に留めておくようにして画を描き、描き終えるとその場をあとにします。或いはその場を立ち去るために/立ち去ることを知ったとき、彼はその相手への敬意から画を描き始めるのかもしれない。
そして本作の最後の舞台となる駅の佇まいが本当に素晴らしくてうっとりします。出発駅のようでもあり、また終着駅のようでもある…。ホテルからこの駅までの道のりは、単にベンをユマ行きの列車へ乗せるためだけではなく、同時にダン自身の過去と、それにつづく現在と未来とが辿り直される、非常に濃密な「道」になっています。であればこそ、駅までの途上というダンの人生それ自体に、父親を軽蔑さえしていた息子ウィリアムが加勢してゆく姿は涙なくしては見られない。誇れるものが何もないと言うこの男の命懸けの跳躍が真に素晴らしいのは、たかだか尊敬される父親への昇格などという射程を越えて、悪漢のベンをも巻き込んで、命懸けでこの息子を成長へと導いたからに他なりません。だからラストの展開/ベンの苛烈な運動性の発露は当然と言える。彼の敬愛する母親を罵った人間がどのような末路を辿ったか。彼の敬愛の対象とは無論彼に描かれたものたちのことだ。彼は母親の画をどれだけ描いただろうか。
■『Om Shanti Om』(ファラ・カーン、2007)
7月14日にギックリ腰を再々発させる。3度目は何としても回避せねばと固く誓いを立てる程度には十二分に激痛を満喫した十数ヶ月前であったはずなのだけれど(よく言われるように、あまりにも痛すぎて寝返りが打てないのだ。また、稀に不運が重なり横になった状態で痛みのスイッチが入ることがあるが、漏れなく発狂する)、ここ2週間ほどは定時までの仕事の後美学校に移動して終電まで編集作業を行わなければならない如何ともし難い流れが半ば出来上がってしまっており(〆切の為)、日課のストレッチもままならなかったのでますます腰にストレスが溜まっていってしまったのだろう。当日は午後からみるみる容態(腰態)が悪化してゆくのが手に取るようで、21時すぎには痛みでまともに立って歩くことが困難になってしまっていた、まだ美学校なのに。
心配なのは今回はその契機となるものがいまいち判然としないことで、過去2回はいずれも「ブチッ」という軽快にして最悪を告げる悪魔のテープカットのような忌まわしい音がしたものだけど、今回はそれすらなく、ただじわじわと疲れとも痛みともつかぬなにものかが腰周辺部に滲み出し、曰く言い難い倦怠感とそれが生み出す呼吸の微細な荒れとの戯れがあるのみなのだ。ある意味ではより巧妙で悪質になってきている。いずれにせよその前段階の兆候を突き止められない現状は極めて僕を不安にさせる。とりあえず備忘録として腰痛治療ナビと腰痛口コミバンクを。もし腰痛の根治に関してなにか良い情報をお持ちの方は教えてくれると僕がすこぶる喜びます。とりあえず今晩は口コミバンクで見つけた鍼灸に行ってみるつもり。
※追記:腰痛持ちは靴を疑え、正しいozn
そんな訳で今回もまるまる1週間ちょっともの間、それも〆切直前という大変貴重な時間を寝たきりによって無為に過ごす羽目になった。経験者の大工原さんや何人かの友人からもありがたいメールをいただき励みとしてきたが、痛みで気が散ってしまって企画を考えるどころではなかった。無論考えなければという焦燥感は常に脳裏に貼り付いていたので、あるいはそのことが返って回復を遅らせてしまったのかもしれない。いずれにせよまともに考えられるようになったのは22日からで、あと2日でどうしろというのかという話だが、それは単にそれまでにシナリオを練り上げ切れなかった自分が悪いので、黙々と書くだけだった。我ながら不誠実に映画と向き合ってるよな……と恥じ入りながら、しかし書くしかなかったのである。
そういったやや重苦しい個人的な経緯もあったので、25日の友人たちからの誘いにはなんだか救われた気がした。無論依然として痛みはあり、コルセット無しでは歩けないような情け無い状態だが、リハビリも兼ねていつものように友人宅に集合し、4月に引き続き今回もカレーを作ってみんなでワイワイ酒を飲みながら食べる、というただそれだけのありきたりで凡庸な途方も無い幸福(実際幸福な知らせも聞けた。おめでとう!)。そんな中で見たのがT嬢が持って来た本作だ。MGMミュージカルを彷彿とさせる(事実、『雨に唄えば』に酷似したシーンもある)躁病的なダンスが、悲喜劇とメタシネマが、というミュージカル映画の王道が、その王道に恥じない蕩尽を惜しまぬマッシヴでゴージャスな巨大な映画の娯楽の塊となって、大手を振るってこの中野の1ルームを3時間だけ悪夢のように美しい極彩色に塗り変え、そして駆け抜けていった。
作品の背景や解説については不案内な僕ではなくこちらを参照していただくとして、個人的にもミュージカルシーンはもちろんのこと、監督がある効果を期待して使用したであろう細やかなCGの使い方や画面設計も実に的確で、やりたいことが正確に演出され、正しくキャメラに収められていることの心地よさと、監督をはじめスタッフやキャストたちの創造へ向かう強靭で喜びに満ち溢れた巨大な意志とがうねりとなってこちら側に迫り出してくるようで、見ているだけで本当に幸福な気持ちになる。しかし、3時間という上映時間が興行上のネックの一因になっているだろうことは想像に難くないとしても、正統な血統の末裔として真に映画的な本作のような作品がわが国において多くの人の目に触れ得ない現状というのは正しく損失以外のなにものでもないのではないか。映画とは、これほどまでに豊かなのである。最後に、本作を見たものの義務としてアンナ・カリーナと多岐川裕美を合わせたような主演女優のディーピカ・パドゥコーネ嬢の垢抜けっぷりが尋常ではない、ということは伝えなければならないだろう、ゼロ年代(!)にこのような映画がまだ創造され続けていることに心から敬意を表しながら。必見!
■『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(庵野秀明、2009)
完成度で言えば旧作を踏襲しつつもさらに観客のイマジネーションを越えるようなポテンシャルをもったスペクタクルをクライマックスで正攻法で見せきった「序」の方が洗練においても高いように思える。それに比べると「破」の後半の戦闘におけるいくつかのスペクタクルは、あくまでも旧作の踏襲、変奏にとどまり、表現として過去のイメージを大胆に越えるほどの振り切れた描写には成り得ていないのではないか。
また輪をかけて台詞回しがどれもこれも本当に耳を覆いたくなるような大味で平板な酷いもので、監督は映像に比べると台詞にはあまり興味がないのかもしれないが、時代遅れな上に稚拙で退屈なやり取り(説明と説教)が延々と続いてゆくので正直辟易してしまった。表現したいクリシェや言い回しが先行してしまっているのか、必ずしもキャラクターに寄り添って書かれたようには感じられない箇所が散見され、どうしても上っ面で茶番じみたものになってしまってドラマが動かずに停滞してしまっている。個々の抱える設定も文字通り設定にしかなっておらず、フィクションとして深刻に立ち上がってこないのだ。
しかし、にもかかわらず、非洗練で混乱したこの「破」に僕は感動してしまった。ヒリヒリするような、もはや格好などつけていられないような、作家・庵野の生理から発せられたピュアで切実なエモーションが、綾波とシンジのあの最後のシーンを描写から表現へと高め得たように感じられたからかもしれない。アルトマンに倣うなら「自らのバイパスを作」ったということになるだろうか。そしてまたこのシーンは、「破」が、その端正で折り目正しく作られた傑作「序」やそれまでの彼の輝かしいフィルモグラフィを荒々しく動物的に乗り越えてゆく決定的な瞬間でもあったように思う。いずれにせよ必見の問題作であることに変わりはない。
以下は個人的な雑感。
「時計の使途」のシークエンスでの空間の把握の仕方―画面の奥行きや高さの持たせ方―に惹かれた。 他にも特報でも見られるが、アスカが寝返りをうつ時のわざと目には外光を当てない照明の感じとか(照明じゃないけど)、誰も指摘しないけど『太陽を盗んだ男』のスコア(ちょっとグッときた)が流れる実景の物撮りの感じとか(実景は軒並み素晴らしかった。だから実景じゃないけど)素直に良いなあと。これらは庵野が実写を経由したことによる影響なのか以前から持ち合わせていた資質なのかはファンではないから分からないけど。あとウォークマンだ。あの小道具は最強だろう。戦闘シーンについては今更言うまでもないだろうから割愛。 客層は若い男女がとても多かった。社会現象を起こすような国民的な作品だからあらゆる意味で当然なんだけど、 それにしてもあそこまで若い観客を劇場によべるのを単純にうらやましく思った。
■西山洋市Presents! 役に立つ山中貞雄
■『河内山宗俊』(山中貞雄、1936)
前回に続いてKMT君のご好意でタダで入場させていただく。申し訳ないので新文芸座のタダ券を差し上げる。鑑賞後、アテネの西山特集でも一緒だった初等科のHND君と新宿駅にて1時間以上話し込む。
■CO2 in TOKYO ’09
■こんなに暗い夜(小出豊、2009)
■ルーブル美術館展 17世紀絵画
その後渋谷に移動して飲む。目当ての場所が満席で入れず。次回は必ず。
■西山洋市Presents! 役に立つ山中貞雄
■『丹下左膳餘話 百萬両の壺』(山中貞雄、1935)
わが生涯の作家であるので当然駆けつける。と言いながらKMT君にタダで入れてもらう。ありがとうございます。もうリンク先に書かれてある西山さんの解説を読むだけで泣けてくる。あとで何か書こう。
■映画の授業 Leçon de Cinéma 現代映画篇
■『INAZUMA 稲妻』(西山洋市、2005)
■『死なば諸共』(西山洋市、2006)
■『吸血鬼ハンターの逆襲』(西山洋市、2008)
『吸血鬼ハンターの逆襲』に痺れまくる。映画がこんなにも面白くていいのだろうかというくらい何もかもが面白い。ドライヤーの『吸血鬼』を、ムルナウの『ノスフェラトゥ』を纏いながら、広げた大風呂敷を矮小化することなくキチンを纏め上げる抜群の手腕にはもう唸るしかない。そして自立的に要請された正義が、やがて狂気に絡め取られて自走してゆく…。ああもう最高だ。しかし後日、『INAZUMA 稲妻』の面白さが分かっていないと大工原さんに生徒みんながダメだなあと呆れられる。曰く、あんなに見ている間中鳥肌が立ちっぱなしだった映画なんてここ何年もなかったと。女優と傷、復讐、とすべてのモティーフがツボだし、それらを十全に演出し、見せきることができる高い技術も西山監督自身には備わっている、等々。『INAZUMA 稲妻』が何かの偶然で誰にでも撮られてしまうような種類の映画からはもっとも遠く離れた存在であることくらいは僕にでも分かる。つまらなかったわけでも決してない。しかし、鳥肌が立つような、心の底から動揺させられ瑕を付けられるような感動を覚えたかというと……。ええ、精進しますとも。
■映画の授業 Leçon de Cinéma 現代映画篇
■『ヨーロッパ2005年、10月27日』(ジャン=マリー・ストローブ ダニエル・ユイレ、2005)
■『アルテミスの膝』(ジャン=マリー・ストローブ ダニエル・ユイレ、2007)
■『ジャン・ブリカールの道程』(ジャン=マリー・ストローブ ダニエル・ユイレ、2008)