2009年7月9日木曜日

20090706


■『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(庵野秀明、2009)
完成度で言えば旧作を踏襲しつつもさらに観客のイマジネーションを越えるようなポテンシャルをもったスペクタクルをクライマックスで正攻法で見せきった「序」の方が洗練においても高いように思える。それに比べると「破」の後半の戦闘におけるいくつかのスペクタクルは、あくまでも旧作の踏襲、変奏にとどまり、表現として過去のイメージを大胆に越えるほどの振り切れた描写には成り得ていないのではないか。

また輪をかけて台詞回しがどれもこれも本当に耳を覆いたくなるような大味で平板な酷いもので、監督は映像に比べると台詞にはあまり興味がないのかもしれないが、時代遅れな上に稚拙で退屈なやり取り(説明と説教)が延々と続いてゆくので正直辟易してしまった。表現したいクリシェや言い回しが先行してしまっているのか、必ずしもキャラクターに寄り添って書かれたようには感じられない箇所が散見され、どうしても上っ面で茶番じみたものになってしまってドラマが動かずに停滞してしまっている。個々の抱える設定も文字通り設定にしかなっておらず、フィクションとして深刻に立ち上がってこないのだ。


しかし、にもかかわらず、非洗練で混乱したこの「破」に僕は感動してしまった。ヒリヒリするような、もはや格好などつけていられないような、作家・庵野の生理から発せられたピュアで切実なエモーションが、綾波とシンジのあの最後のシーンを描写から表現へと高め得たように感じられたからかもしれない。アルトマンに倣うなら「自らのバイパスを作」ったということになるだろうか。そしてまたこのシーンは、
「破」が、その端正で折り目正しく作られた傑作「序」やそれまでの彼の輝かしいフィルモグラフィを荒々しく動物的に乗り越えてゆく決定的な瞬間でもあったように思う。いずれにせよ必見の問題作であることに変わりはない。

以下は個人的な雑感。

「時計の使途」のシークエンスでの空間の把握の仕方―画面の奥行きや高さの持たせ方―に惹かれた。 他にも特報でも見られるが、アスカが寝返りをうつ時のわざと目には外光を当てない照明の感じとか(照明じゃないけど)、誰も指摘しないけど『太陽を盗んだ男』のスコア
(ちょっとグッときた)が流れる実景の物撮りの感じとか(実景は軒並み素晴らしかった。だから実景じゃないけど)素直に良いなあと。これらは庵野が実写を経由したことによる影響なのか以前から持ち合わせていた資質なのかはファンではないから分からないけど。あとウォークマンだ。あの小道具は最強だろう。戦闘シーンについては今更言うまでもないだろうから割愛。 客層は若い男女がとても多かった。社会現象を起こすような国民的な作品だからあらゆる意味で当然なんだけど、 それにしてもあそこまで若い観客を劇場によべるのを単純にうらやましく思った。

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